今年になってから詠んだ歌どもです。
大雪の宵をすぐして 雪どけの音ぞしたしき 春きたりけり
生きにくい今日はくれたり いとしさのつのる頃には 夜もふけぬらむ
祖父が永眠した。91歳。大往生であった。
母上の父にてありしひとさまは 神さびにけり 秋つくれかた
あけくらしお骨となりし いのちかな 面影ばかりあとかたにして
人生はかたづけられてしまったり あとにのこりし人たちのため
祖父のなき世のはじまりぬ なにくはぬ顔をしたまま けふを生きゆく
諸々の人間が、それぞれの心情や情実に動かされ、また自分でも動かしながら、右往左往しつつまわしているのが「社会」という活物だ。しかも昨今ではSNSの普及により、その回転数は、少なくとも体感的にはかなり高まっているように感じる。しかしそういう時勢であればこそ、それにふりまわされない生き方を標榜するものがいてもいい。否。この狭い視界に入らないだけで、広い世間にはいくらもいることだろう。もっともファッションとして標榜するだけなら、ちょっと気の利いた人間なら誰でもできる。難しいのはそれを体得することだ。「体得」と言うだけなら、これまた誰にでもできる。生き様で証明せねばならない。なかなかどうして難しいことだ。
すべての物事をやりつくすことはできない。あたり前のことだ。
すべての書籍を読みつくすこともできなければ、すべての音楽を聴きつくすこともできない。それはそうだろう。あるジャンルのそのまたサブジャンルにしぼったところで、なかなか容易ではないし、それはそれで専門馬鹿になるだけやもしれぬ。
思うに、やりつくすということ自体、美学のように見られがちだけれども、実のところは人間の願望であり欲求にすぎないのかもしれない。ひとつの物事をやりつくすことに意味が生まれるのは、やりつくすという行為に対してではなく、その結果として得られたもの・生みだされたものにとってこそなのだろう。
そんなことを考えた。