2017年のボカロ曲5選です。とりとめのない散文となりました。
空中るさ「一過性の」
僕には、人生というものがよく分かってないせいか、なんのために生きるのか。という問いに落ちこんでしまうことがよくあります。ありませんか。
「今日がこんなにも ポップスな気分に なれる日に なれるとはね」
この音楽は、この問いかけに、あっさりと示された啓示のような音楽です。よく晴れた冬の陽光のように、爽やかに、鮮やかに。躁でもなければ、欝でもなくって。ありふれた心地よさと、またとないポップス。1回きりの再生ボタン。
ほのろろ「水色過剰」
あてどないセンチメントに沈んだ感情が、水面まで浮きあがった瞬間をとらえたら、きっとこんな音楽だろな。ようやく息つぎができた、あのときの感覚を覚えていませんか。
「機械も泡の泡 手紙だけが いまだ飛んでいる」
空想のなかに逃避するようで、光景に溶けだしたかのようで。ぼんやりとした境界は、あやふやなままでいい。優しさをまとった、芯のつよさ。功利に拘束された世間への、しなやかなレジスタンス。憧れますね。
大根おろしP「海へ流す」
ある夕暮れに。親しかりし人の葬送を、キャンバスに描くかのように、どくどくと流出してゆく感情。これまでの世界は失われてしまった。
「扉の向こうの 冷めてくココアの やつれた火星の......」
感極まった人間には、現実と夢想の違いがなくなる。現実はそのまま夢想であり、夢想がそのまま現実として感じられる。かけがえのない他者を失うことは、そのまま自分の死でもある。歪められたゆえの純粋さ。これもひとつの臨死体験ポップであろう。
鈴木O「光明」
思いよらない破天荒にいたぶられたあげく、大海原を漂流する船舶のように、純粋でありたい。たとえばこの音楽が奏でるように。
「......」
くり返されるストリングスの旋律は、ふきすさぶ風雨のように、心を洗ってくれる。はりつめた緊迫感と、その浄化に身をゆだねてしまえば、一縷の歌声が響きわたろう。人間と運命がぶつかりあう刹那の美しさ。それはまたとない芸術だ。
ぐらんびあ「後ろめたい」
それにしたって人生とは泥臭いものだ。ボカロの歌声に耳をかたむけて、こんな散文を書きつけてしまうぐらいには。でもしかたない。そうでもしなければ嘘になる。
「決まらない 着慣れないジャケットを 肩にかけ」
あてどない感情を道づれにして、人は生きていく以外の選択肢がない。そう思いきってしまえば、少しは気楽にもなれよう。どこかに結末はあるのだから。それにしても偶然にボーカロイドという車窓でめぐりあった皆さんは、この旅路をどこまでゆくのだろう。僕はどこまでゆけるだろう。未来が楽しみだ。とりあえず今年も、自分なりのこだわりを大切にしながら、ときにはそれを見直しながら、いっぱい聴いてゆきたい。それではまた来年。