病已.com

思ったことを歌にしたり、書きとめたり、しています。

「古典」とは何か

日常的に「古典」にふれる生活をしていると、ときどきそんなことを思い返してみることがある。いったい「古典」とは、誰もが通らざろうえない教育という過程において、やむなく触れることになる、分かりにくい文学のことであろうか。多くの人がそうと認めるのなら、あるいはそうなのかもしれない。

だが、それではあまりにもったいない。思うに「古典」とは、先人たちにとって、生きるための典拠となり、よすがともされてきた作品であるが、それと同時に今を生きる人たちにとっても、そうした価値をたもっている作品でなければならない。

たとえば「論語」をひらいて、そこにつらなる言葉を眺めたとき、いにしえの聖人とされた人物の、さまざまな苦心がたち現れてくることだろう。それが、自分のかかえている苦心と、ある種の共鳴をなし、何がしかの感情をよび起こすからこそ、それは現代にあっても「古典」と言い得るのだ。

もし、そうした共鳴がないのなら、それはただの「古い文献」となってしまう。そういう意味では、「古典」を生かすも殺すも、現代に生きる人たち次第なのかもしれない。先人たちの足跡のうちから、何を受けとり、それをどのように生かして、さらなる後世へと伝えてゆくのか。

私たちは、歴史的な「今」を生きる存在だ。

「切磋琢磨」という営為

「切磋琢磨」という言葉がある。現代では「お互いに磨き合う」といった意味で用いられるが、原義は異なるようだ。唐突だが、それは「彫刻」と似ている、かもしれない。

この鑿のひと振りが、自分自身に対してどういう痕跡をもたらすのか、慎みながらも一方では大胆に、自らをあるべき自分たらしめてゆく、そうした営為のことであろう。

もとより意図した通りの結果が得られるとは限らない。否、期待はずれの結果ばかりかもしれない。しかしそこは「たらずといえども遠からず」と、思い切るしかなかろう。おおよその像が見えてきたならば、あとは磨きあげるばかりである。

人生とはままならぬようでいて、どのような人生を生きるかは、結局のところ自分次第だ。不満足な環境のなかで、自らを詐りながら生きてゆくなら、その人の人生はそういうものになってしまう。反対に、その不満足を自覚して、それを変えてゆこうとするなら、その人は失敗を繰り返しながらも、なにがしかの収穫をえることだろう。

心の持ち方次第で、人生とはいかようにも変わってくる。そこまで思い切れば、どれほど愉快なことだろうか。

うちみがく心のままに生きてみむ わがゆく末は明日にあずけて


 なお語義・語源について言及すべきかとも思ったが、すでにいろんな解説がネット上にあるので割愛した。

「分かった気」にならないすすめ

ある存在について「分かる」とは、いったいどういうことだろう。辞書的に言えば、「その物が、何のために存在するのか、誰のどういう意図によって生みだされたのか、それはどういう影響をもたらすのか、それらのことを明晰に理解する」と、いちおう定義することはできよう。だが、そう定義したところで、それ自体は言葉遊びに過ぎない。「分かる」ことを分かった気になっている、それだけのことだ。

そもそも「分かる」と「分かった気になる」とは、似ているようでいて、まったく別のことなのだ。自分一人で分かった気になっていたことを、いざ事情を知らない人に説明して伝えようとしたら、ぼろぼろと穴が見つかったという経験は誰しもあるのではなかろうか。

しかし往々にして人は、ある物事をぱっと見ては、分かった気にだけなって満足してしまう。パソコンやインターネットが普及し、さまざまな創作コンテンツが世界にあふれでてきたことで、その風潮には拍車がかかっている、かもしれない。楽しみたいものは無数に存在する。その一方で人に与えられた時間は、1日なら24時間、1年なら365日と有限なままだ。だから多くの人たちは、目に入った面白そうなものに飛びついては、「分かった気」にだけなって、また別のものへと楽しみを移してゆく。そしてしばらくしたら、すっぽりと忘れてしまう。

それは、新聞の輪転機のようにせわしない世の中で、追いたてられながら生きている人からすれば、仕方ないことなのかもしれない。彼らにとっては、どんな作品も、栄養ドリンク剤みたいなものなのだろう。それにしても、もったいないことだとは思う。

一つの思想なり、文学なり、音楽なりを、よくよく玩味することでしか見えてこないものもあろうに。かくいう自分は、最近は「大学章句」をよく読んでいます。あそこでいう「豁然貫通」って、いったいどういう体験なのでしょうね。もしかしたら、それこそが「分かる」という体験なのかもしれない。

何にせよ、やすやすと「分かった気」にならないことでしょう。