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「分かった気」にならないすすめ

ある存在について「分かる」とは、いったいどういうことだろう。辞書的に言えば、「その物が、何のために存在するのか、誰のどういう意図によって生みだされたのか、それはどういう影響をもたらすのか、それらのことを明晰に理解する」と、いちおう定義することはできよう。だが、そう定義したところで、それ自体は言葉遊びに過ぎない。「分かる」ことを分かった気になっている、それだけのことだ。

そもそも「分かる」と「分かった気になる」とは、似ているようでいて、まったく別のことなのだ。自分一人で分かった気になっていたことを、いざ事情を知らない人に説明して伝えようとしたら、ぼろぼろと穴が見つかったという経験は誰しもあるのではなかろうか。

しかし往々にして人は、ある物事をぱっと見ては、分かった気にだけなって満足してしまう。パソコンやインターネットが普及し、さまざまな創作コンテンツが世界にあふれでてきたことで、その風潮には拍車がかかっている、かもしれない。楽しみたいものは無数に存在する。その一方で人に与えられた時間は、1日なら24時間、1年なら365日と有限なままだ。だから多くの人たちは、目に入った面白そうなものに飛びついては、「分かった気」にだけなって、また別のものへと楽しみを移してゆく。そしてしばらくしたら、すっぽりと忘れてしまう。

それは、新聞の輪転機のようにせわしない世の中で、追いたてられながら生きている人からすれば、仕方ないことなのかもしれない。彼らにとっては、どんな作品も、栄養ドリンク剤みたいなものなのだろう。それにしても、もったいないことだとは思う。

一つの思想なり、文学なり、音楽なりを、よくよく玩味することでしか見えてこないものもあろうに。かくいう自分は、最近は「大学章句」をよく読んでいます。あそこでいう「豁然貫通」って、いったいどういう体験なのでしょうね。もしかしたら、それこそが「分かる」という体験なのかもしれない。

何にせよ、やすやすと「分かった気」にならないことでしょう。