病已.com

思ったことを歌にしたり、書きとめたり、しています。

「古典」とは何か

日常的に「古典」にふれる生活をしていると、ときどきそんなことを思い返してみることがある。いったい「古典」とは、誰もが通らざろうえない教育という過程において、やむなく触れることになる、分かりにくい文学のことであろうか。多くの人がそうと認めるのなら、あるいはそうなのかもしれない。

だが、それではあまりにもったいない。思うに「古典」とは、先人たちにとって、生きるための典拠となり、よすがともされてきた作品であるが、それと同時に今を生きる人たちにとっても、そうした価値をたもっている作品でなければならない。

たとえば「論語」をひらいて、そこにつらなる言葉を眺めたとき、いにしえの聖人とされた人物の、さまざまな苦心がたち現れてくることだろう。それが、自分のかかえている苦心と、ある種の共鳴をなし、何がしかの感情をよび起こすからこそ、それは現代にあっても「古典」と言い得るのだ。

もし、そうした共鳴がないのなら、それはただの「古い文献」となってしまう。そういう意味では、「古典」を生かすも殺すも、現代に生きる人たち次第なのかもしれない。先人たちの足跡のうちから、何を受けとり、それをどのように生かして、さらなる後世へと伝えてゆくのか。

私たちは、歴史的な「今」を生きる存在だ。